巨大組織にみる緻密すぎる計画と局所最適化の弊害

巨大組織にみる緻密すぎる計画と局所最適化の弊害

 第2次世界大戦での連合軍の歴史的な勝利といえば、「オーバーロード作戦」という暗号名のついた、1944年6月6日をDデイとするノルマンディー上陸作戦だろう。戦争に勝利するには英雄的行為が必要だが、まず英雄を生きて上陸させるために冷徹で合理的な計画が必要だ。
 軍事史の研究者であるステファン・アンブローズは、オーバーロード作戦を「果てしない計画作業」と表現する。ノルマンディー上陸を「史上最も複雑な軍事作戦」と呼んだウィンストン・チャーチルの言葉は今でも真実味を失わない。
 非常に入り組んだ、複雑に絡み合ういくつもの攻撃作戦の最高司令官は、ドワイト・アイゼンハワー元帥だった。作戦の目的は、連合軍が西ヨーロッパへの侵攻作戦を実施して戦争を終結させるため、ノルマンディーに足がかりを築くことだった。
 フランスの海岸を守ることの重要性を十分わかっていたドイツ軍の最高司令官エルヴィン・ロンメル元帥は、「大西洋の壁」の強化を命じた。数百万個もの機雷と地雷の設置、対戦車砲や機関銃を取りつけたコンクリート製の掩蓋(えんがい)陣地、複数の装甲戦車部隊の待機といった、とんでもない組み合わせだ。敵のパラシュート部隊を混乱させるため河川まで氾濫させた。
 こうした強力な防御を突破するため、アイゼンハワーは17万5000人の兵士とその装備を上陸させる準備をした。装備にはオートバイからブルドーザーまで、5万台の車両も含まれていた。ドイツ軍の防御を弱めるため、強襲上陸前に海と陸から爆撃し、その直後に海岸にも攻撃をかけることになっており、上陸と攻撃は1秒単位で計画された。
 たとえばオマハビーチでは、午前6時25分ちょうど、連合軍の海と空からの爆撃が停止すると同時に水陸両用戦車の2個中隊が上陸し、次々と上陸してくるはずの歩兵を援護することになっていた。5分後の攻撃開始時刻には、さらに戦車隊が上陸し、その1分後には最初の歩兵がビーチのあちこちに上陸する。攻撃開始から3分後、30分後、40分後、50分後、57分後、そして60分後にそれぞれ歩兵が上陸するはずだった。最初の1時間だけで、こんな具合である。
 イギリスではこの作戦に使う石油、食料、弾薬を補給するために、さらに数千人が働いていた。それ以前にも母国アメリカでは、アイゼンハワーをはじめ司令部のニーズに応えられるように生産能力を振り向けたり、必要に応じて物資を届ける輸送インフラの整備といった懸命の準備が進められていた。攻撃の数カ月前にあたる1944年初頭には、ドイツの補給活動を混乱させるため、連合軍はドイツの工場や製油所を繰り返し空爆した。
 人類の歴史を振り返っても、司令官がこれほど緻密に攻撃の計画や構成を準備するというのは、比較的新しい試みだった。アイゼンハワーはインタビューで「戦闘が始まるまでは計画がすべてだ」と語ったことがある。歴史学者のジョン・キーガンによると、こうした認識が生まれたのは、1866年にプロイセン軍オーストリアとフランスに勝利したことがきっかけだった。主な勝因は大規模な鉄道ネットワーク(一部は国有)を整備し、部隊を迅速に最前線に送り込む体制があったことだ。ヨーロッパ諸国の軍隊の司令官は、この教訓を忘れることはなかった。1944年にノルマンディーの海岸を守っていたドイツ軍は、1876年から独自の鉄道部門を持っていた。必要なときに軍が使える、統制のとれた輸送システムの重要性を認識していたことの表れだ。
 慎重な事前計画(それに驚くべき英雄的行為の数々)は見事に功を奏した。連合軍はノルマンディーの海岸を制圧すると、フランスを通ってベルギー、さらにはオランダを制圧し、年内にドイツ国内に入った。ヒトラーを打ち破った連合軍は、その後数万発の弾頭をはじめとする強固な軍備を築き、冷戦時代を通じてヨーロッパの平和を守り抜いた。
 第2次世界大戦を戦った兵士は母国に戻り、企業組織で働くようになったが、そこには軍隊組織との共通点も多かった。というのも、アメリカの大企業の多くは軍と同じように、産業革命を推進した巨大な組織から、ロジスティクスや事業計画の大切さを学んでいたからだ。
 組織を部門に分け、一般社員と管理職、管理職とボスとを同一方向の矢印で結んだ現代的な「組織図」は、1855年に当時世界最大の鉄道会社であったエリー鉄道のダニエル・マッカラムが考案したもので、その目的は人材や経営資源を管理することにあった。アイゼンハワーの軍隊と同じように、マッカラムはエリー鉄道という組織に、明確な責任分担、上司に権限を集約する指揮命令系統、職務の遂行を報告するためのコミュニケーションチャネル、指揮官(マッカラム自身)が組織全体で起きていることを把握して行動を起こすための手段を導入しようとしたのだ。
 ロナルド・コースが留学していた頃のアメリカ経済界では、官僚的で中央集権的な組織が幅を利かせていた。当時はこのモデルの優位性に疑問を持つ理由などなかった。ピラミッド型組織は、アメリカ中に鉄道網を建設するのにも、製鉄所や石油精製所にも、同じように有効であることが明らかだった。また第2次世界大戦中には、多数の部隊を連携させて戦略的・戦術的な目標を達成したり、何百万という兵士や何百万トンもの物資を世界中に送り届けたりすることにも役立ち、ヨーロッパのドイツ軍、太平洋の日本軍を打ち破る原動力となった。ピラミッドの頂点にトップが陣取る組織図は、合理的で正しい選択だった。ただし、これはあくまでも理屈の上での話だ。
 ノルマンディー上陸作戦の欠陥は、Dデイ前日に内陸部に降下した101空挺師団の兵士たちには明白だった。作戦に対する彼らの意見は、アイゼンハワーとはまったく異なっていたはずだ。たとえば、アイゼンハワーが準備した台本には、悪天候による影響がほとんど織り込まれていなかった。だが6月6日の晩に満月がのぼる頃には、フランスの沿岸部に厚い雲が立ち込め、戦闘員や機材を陣形どおりに降下させようとする連合軍のパイロットを悩ませた。部隊は散り散りになり、戦闘員は地上で場当たり的にグループをつくるはめになった。
 パラシュート部隊の状況をさらに悪化させたのは、この史上最大の上陸作戦のために軍が開発した2つの"秘密兵器"だ。
 1つは「レッグバッグ」で、イギリス空挺部隊の兵士たちはこれをどう使いこなそうかと頭をひねった。レッグバッグには機関銃の台座や医薬品など、降下する際に身につけられない備品が入っていた。兵士はこれを長さ6メートルのロープで足にくくりつけ、地面に着地する直前に解除ボタンを押し、身体から切り離すことになっていた。その上に飛び降りれば、すぐに戦闘態勢がとれるというふれこみだった。
 第101空挺師団の兵士たちは、予備の弾薬、食器、小型機関銃など思い浮かぶものをすべて袋に詰め込んだ。そして"1万ドルのジャンプ"(軍隊は兵士1人あたり1万ドルの生命保険をかけていた)についてジョークを飛ばしながら、18人ずつのグループになってC47輸送機に乗り込むと、第二の発明品を支給された。「飛行機酔い防止の錠剤」である。
 今日に至っても、この錠剤にいったい何が含まれていたかは誰にもわからない。だが服用した兵士の相当数が眠りに落ちた。そのまま目覚めなかった者もいる。彼らを乗せた輸送機が撃墜されてしまったからだ。撃墜されなかった者の多くも、降下するときには薬のせいで頭がクラクラしていた。
 レッグバッグを身につけたまま飛び降りた兵士たちは、輸送機が想定よりも速いスピードで飛んでいたことに気づいた。時速140キロのはずが240キロも出ていたのだ。パラシュートで降下する者にとってはありがたくない話だが、敵の砲撃をかわそうとするパイロットなら当然の行動だ。レッグバッグに余計なものを詰め込んでいたため、兵士たちはパラシュートを開いた数秒後には着地してしまった。この数秒間の降下中に、時速240キロの輸送機から飛び降りた衝撃と想定の3倍になっていたバッグの重みで、バッグと兵士を結んでいたロープは切れてしまった。ふらつく頭で丸腰のままDデイの朝を迎えた兵士たちに、アイゼンハワーの作戦がどれほど有効であったか尋ねたら、どんな答えが返ってきただろう。
 軍事作戦の責任者であるアイゼンハワーも、第101空挺師団の兵士たちと同じ意見だったかもしれない。「戦闘前には計画がすべてである」と語ったアイゼンハワーだが、その直後に「戦闘が始まってしまえば、計画は役に立たない」と付け加えている。ただ、地上に降り立った兵士たちには「マイナス面ばかりを見るな」と小言を言ったかもしれない。
 攻撃前の入念な計画が、連合軍に多大な恩恵をもたらしたのは間違いない。それを端的に示すのが、この計画がなければ何十万人もの兵士を上陸させ、連携しながら攻撃を仕掛けること(連携は決して完璧とはいえなかったが)など不可能だったという事実だ。
 軍事計画の立案は、相互に絡み合う攻撃作戦のジグソーパズルを解くような作業であり、一つひとつの作戦の成否は他の作戦がきちんと実行されるか否かにかかっていた。たしかにレッグバッグは想定どおりの役目を果たさなかったが、上陸する兵士たちを援護射撃した水陸両用戦車や上陸軍に燃料を補給するためにイギリス海峡に敷かれた巨大なゴムホースなど、発明品の多くは有効に機能した。

無策で戦場へ向かうとどうなるか

 軍事作戦に対するアイゼンハワーの認識が正しかったことを理解するには、事前計画、統制、権力の集中化といった事柄に十分な注意を払わないまま侵攻作戦を実行するとどうなるか、見てみるといい。Dデイの連合軍の死傷者は1万人とされ、このうち2500人が死亡した。だがこの作戦の責任者が約40年後のキューバ侵攻を指揮した海軍司令官であったら、はるかに悲惨な結果になっていたはずだ。
 1983年、アメリカのロナルド・レーガン大統領は、カリブ海の小国グレナダでのクーデターと、アメリカの医学生の安全確保を大義名分に、キューバの指導者フィデル・カストロと彼に連なる共産主義者を排除する軍事侵攻を決めた。「抑えきれぬ怒り(アージェント・フューリー)作戦」と命名されたこの軍事行動では、敵勢はせいぜい2000人程度だっただろう。ほとんどは粗末な武器しか持たないグレナダ人とキューバ人で、そこに少数のソ連東ドイツなどの兵士が交じっていた。
 結局は圧倒的な兵力を持つ"ゴリアテ"アメリカの勝利に終わったが、無傷だったわけではない。たとえば、先陣を切った陸軍の奇襲部隊は、援軍の不足に悩まされたが、その一因は作戦に参加していた陸海空の各軍が無線周波数を共有していなかったことにあった。この結果、援軍となれたはずの海兵隊の司令官はついに動かなかった。陸軍と海兵隊の間にはコミュニケーションルートがなかったのだ。総督府の攻撃中には、海軍特殊部隊が海兵隊のヘリコプターのために身動きがとれなくなった。彼らがヘリに「攻撃を中止せよ」と伝えられなかったのも、無線周波数の混乱が原因だ。最終的にはフォートブラッグ基地に"コレクトコール"で電話をかけ、ようやく海兵隊を追い払うことができた。ある評論家は「アージェント・フューリー作戦は使用言語の異なる3~4人の演出家が1つの舞台でてんでばらばらに指示を出す、カブキの舞台のようだった」と酷評した。
 グレナダ侵攻での不始末を受けて、レーガン大統領は1986年、アメリカ各軍の連携強化を目的とするゴールドウォーター・ニコルズ法を制定した。だが軍の伝統というものはなかなか変わらない。グレナダでの連携ミスからほんの10年後には、空軍のF15戦闘機2機がイラク上空の飛行禁止区域で陸軍のヘリコプター「ブラックホーク」2機を撃墜し、グレナダ作戦の死者を上回る乗員26人全員が死亡する事件が起きた。原因は空軍と陸軍のコミュニケーション・ミスだ。まさにこうした事態を防ぐために、さまざまな安全策が講じられていたにもかかわらず、である。
 空軍のF15戦闘機がパトロールをしていた飛行禁止区域は、サダム・フセイン率いる共和国軍によるクルド人虐殺を受けて、国連がイラク北部の安全を確保するために設けたものだ。地上で人道的支援を実施するため、アメリカ主導の合同タスクフォースの指揮下で複数国が連携して空から安全を守ることになっていた。アメリカからも陸軍や空軍など複数の部門がタスクフォースの活動に参加した。
 1994年4月14日、F15戦闘機2機が飛行禁止区域に敵機がいないことを確認するため、トルコから国境を越えてイラクに入った。先頭機のパイロットだったエリック・ウィクソン大尉が、低高度で飛行する正体不明のヘリコプター2機を発見した。1991年に国連がイラク制裁を実施した数日後、イラクは国連の本気度を測ろうとソ連製のミグ戦闘機をバグダッドから出動させたが、戦闘機は飛行禁止区域に侵入した直後に撃墜され、その後は平穏が続いていた。
 ウィクソン大尉が発見した2機のヘリコプターは、イラク北部を通過する国連側の航空機のフローチャートには掲載されていなかった。F15が万国共通のIFF(敵味方識別)信号を発しても応答はない。接近飛行でブラックホークソ連製ヘリコプター「ハインド」と誤認したウィクソンと編隊僚機の操縦士は、AWACS(空中警戒管制システム)に断りを入れたうえで、ヘリコプターを赤外線追尾ミサイルで撃ち落とした。ウィクソンらが自分たちの犯した恐ろしい失敗を知ったのは、トルコの基地に戻ったあとだった。
 ブラックホーク撃墜事件の原因は、不運と連携不足が重なった結果、またしても戦闘機と非武装のヘリコプターの間に連絡手段が存在しない状態になっていたことだ。
 陸海空軍の指揮系統が統合されたばかりであるにもかかわらず、陸軍と空軍の業務運営は合同タスクフォースの下でもまったく違っていた。ヘリコプターがイラク空域に入る航空機をリストアップした空軍のフローチャートに記載されていなかったのは、空軍の定義において「航空機」とは固定翼機だけを指し、ヘリコプターは含まなかったからだ。またブラックホークがF15のIFF信号に反応できなかったのは、その数年前に空軍が独自のIFF信号を採用していたからだ。しかも陸軍にはその事実を通知していなかったのである。
 イラク領空に入るすべての航空機は、飛行禁止区域の周波数に切り替えることを義務づけるルールがあったにもかかわらず、ブラックホークの操縦士は陸軍の慣例に従い、飛行禁止区域に入っても通常の遠距離用周波数を使いつづけた。このためF15のようにAWACS管制官と通信をしていなかった。このケースでは信号の行き違いが人命を奪う事態になったのだ。
 陸軍のパイロットがトルコ国境を越えたのちに周波数を切り替えなかったのは、信じがたいルール違反のように思える。だがイラク領空で3年あまり平穏な状況が続く中で、これは当たり前の行為になっていた。ハーバード・ビジネススクール教授のスコット・スヌーク(元陸軍大佐で、グレナダ侵攻では味方の砲弾で負傷した経験がある)は、このような緩やかな変化を「実用的逸脱」と呼ぶ。外部との調和を犠牲にしながら、グループ内の慣習を適応・変化させていくことを指す。
 グループ単位で見れば、それぞれの行動は合理的だ。陸軍の航空機はイラク内部に深く入り込むことはなかった。それは空軍のパトロールに委ねられていたからだ。そんな陸軍の航空機にとって、飛行中に通信用周波数を変更するのは危険をともなう行為だ。だからある段階で陸軍のパイロットたちは、遠距離用周波数を使いつづけることを内輪で決めてしまったのだ。彼らの失敗は、自分たちの内輪の決定が、寄り合い所帯の国連軍の中でどのような影響を持つかを考慮しなかったことだ。
 それにしてもブラックホークが飛行計画のフローチャートから抜けていたのはなぜだろう。答えは4月14日の朝にフローチャートを作成した空軍の事務員が知っている。事務員はブラックホークの飛行計画自体は記録していたが、フローチャートについては航空機の飛行路を記載すること、と指示されていた。F15が高度の高いところを飛ぶのに対し、ブラックホークは地上近くを飛ぶので、両機が顔を合わせることはめったになかった。そこで空軍では、F15のパトロール任務に関連のある固定翼機だけをフローチャートに記載することが通例になった。余計な情報まで記載してチャートを複雑にしても仕方がない。事務員からすれば、上司の指示に忠実に従っただけだった。